2019/8/2

富山大空襲~家系図調べでわかったこと

●~富山大空襲~家系図調べでわかったこと
 
自分の家系図調べをしていていろんなことに気づきました。 8月1日が富山市にルーツを持つ自分にとって、非常に重要な日だということです。ちょっと長めの駄文を書いちゃいました。
自分のための備忘録です。
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富山大空襲が日本最大の破壊率だったということは
あまり知られていない。
実は私も知ったのは本当に最近。
自分の家系図調べをしていく中で
古い戸籍謄本にある「戦災により焼失」を
目にしてググってみたのがきっかけ。
 
2007年に他界した母からは
生前何度となく繰り返し聞かされていた
「富山大空襲」の話だが、
ドラマで見る東京や大阪の大空襲や
広島・長崎の原子爆弾の被害に比べて
小規模なのではないかと「勝手に」、そう
「よく考えずに」思い込んでいた。
 
 
1945年8月1日深夜から2日未明にかけて
富山市内に投下された爆弾は1万2710発(極短時間!)。
死者約3000人、負傷者8万8000人。
焼失家屋は2万4914戸(市街地の99.5%!)。
戦災面積1377ヘクタール(大阪万博記念公園約5.3倍、甲子園球場の約345個分)。
 
広島・長崎の原爆を除くと地方都市としては
最大の被害だったらしい。
 
当時、母の実家は文字通り女子供と
母の祖父(つまり私の曽祖父)が留守を守っていた。
曽祖父は防空壕には入いるな!と言ったらしい。
そして、とにかく全員走って火災を避けるため、川(おそらく神通川)に向かったという。
実は後からわかったことだが
この防空壕の中で亡くなった方が非常に多いという。
あまりにむごくて文字にしにくいが
つまり・・・
町を覆いつくした大火によって
防空壕の中で蒸し焼きになってしまったのだと。
曽祖父はとっさに
防空壕は危険、中に入ってはいけないと判断したようだ。
なぜ、そのように思ったのかはもはや今では誰もわからない。
 
 
母の生家の場所は
標的になった富山城付近から約2キロにあった。
(2キロ?!我が家から見たら、
最寄りの阪急の駅あたりじゃないか!)
 
当時幼稚園児だった母は、
理由はわからないが、サイレンと
迫りくるB29の音を聞きながら
幼稚園で使っている
クレヨンの箱を胸に抱いて走ったという。
 ちなみに父の生家も隣町。
母の生家に非常に近いところにある。
 
両家とも、
親族の中に戦争の犠牲者として亡くなった者が一人もいなかったのだが、
それは奇跡的と言えるほどのことだったかもしれない。
 
ネットで調べれば調べるほど、
見えてきた富山大空襲の被害の実態。
 
岩瀬家の当時あった町は、
寺院が多いところだと聞いていたので数年前足を運んでみた。
街並みに門前町らしい風情は何もない。
いや、「何もない」わけではないが古いコンクリート造の
建物ばかり。一見しただけでは寺院には見えない。
どうしても京都や奈良のイメージが強いため
「これが門前町?」と違和感を覚えた。
それもそのはず。
全て焼失していたのだ(!!)。
そんなことを今更知ったのだった。
 
そうか。。。
大空襲で全部焼けてしまったんだ。。。。
 
何度も何度も何度も
母から聞かされていた戦争や空襲の話だったが
幼さ(子供なら仕方ないとしても)、想像力のなさ、無関心から、
ちゃんと響いていなかったことが悔やまれる。
今ならもっともっと
違った姿勢で母の戦時中の話を聞けると思うのだが。
 
 
母も父も他界し、
高齢化していく親族も、大阪から遠く離れた富山にいる。
普段は「ルーツ」のある富山のことを深く考えることはない。
せいぜい、食べ物がうまい、とか、山がすごい!とか・・・。
 
家系図調べは「樹形図を描いて、額に飾って」では終わらない。
一族の生活していた町の歴史に触れることになる。
そこで生活していた先祖たちの思いや、
親族ではないが先祖の周りいた人々の生と死や思いにも触れる(想像ではあるが)ことのできるものだと実感する。
そして、自分が生まれてきたことの意味や、
「なおも死なずに、今、生かされている意味は何か?」という、
容易に答えの出ない命題に向き合わざるを得なくなる。
 
がれきすら残らなかった富山市内の焼け跡の写真をみて、
ルーツのある場所から遠く離れた空の下、ここ大阪で、
ひっそりと鎮魂の思いをはせてみる。
 
追記:
7月20日、26日には
製鉄・アルミニウムメーカーなどが
ある工場地帯・岩瀬地区に、
模擬原子爆弾「パンプキン爆弾」が投下されている。
広島・長崎の「予行演習」だったらしい。